2010年2月21日日曜日

【狛犬の仲間たち】1. 神使・眷属

■1. 神使・眷属
 神社には狛犬だけでなく、狼、犬、狐などの石像が置かれている場合があり、時には狛犬のように一対のものもあります。しかし、実はこれらは狛犬とは少々役割が異なっています。狛犬は神像を守護するための霊獣ですが、狼、犬、狐などは神使(しんし)あるいは眷属(けんぞく)と呼ばれ、神の使いという位置づけなのです(眷属は仏教に由来する用語で、神道では神使と呼ばれています)。日本古来の神々はその姿を持たず、われわれは見ることはできません。その神々がわたしたちの目に見える形で意志を伝えるために遣わした動物が神使とされています。

 そして神使である動物は、本殿や拝殿の彫刻や手水舎に彫られたり、狛犬のように石像となって境内で見ることができます(春日大社の鹿や、伊勢神宮の鶏のように境内で飼育されているものもあります)。神社によって神使が決まっていますが、なぜその動物が神使となったかについては、神話や民間伝承などさまざまな由来があります。

◆「神使」(Wikipedia)
◆「神使像めぐり 神使になった動物たち 福田 博通」(神使の館)

【狛犬の仲間たち】1-1. 狼

■1-1. 狼
 狼は、「大神」に通じることからもわかるように、様々な神使の中で最も神に近いものとされています。神格化された狼は古来より「大口之真神」(おおくちのまかみ)という神名で呼ばれています。狼信仰で有名なのは東京・奥多摩や埼玉・秩父地方です。この地域では、猪などの動物から田畑を守り、山火事を遠吠えで知らせる狼は「お犬さま」と呼ばれ、信仰の対象となってきました。

 狼像と狐像の違いは、浮き上がったあばら骨、二本の牙、足先の爪などで見分けることもできますが、狐とほとんど区別がつかないものも多くあります。ちなみに、ヤマイヌ(山犬)とオオカミ(狼)とは、別の動物とされる場合もありますが、現在では同一の動物と考える説が有力のようです。

◆「狼-(1) オオカミ 日本武尊(お犬さま信仰)のオオカミ」(神使の館)
◆「オオカミ像「あらかると」」(神使の館) - 多くの狼像の写真。
◆「狼-(6) 秩父・武蔵の オオカミ風にされた和犬」(神使の館) - 和犬像が狼像風になっている。

【狛犬の仲間たち】1-2. 犬

■1-2. 犬
 狼や狐と非常に似ていて非常に区別がつきにくいのですが、犬(和犬)が神使となっている神社も多くあります。由来としては、弘法大師(空海)が高野山の開山を決めた時に和犬に先導されたという伝説から、真言宗や天台宗の密教では和犬を神使としたのではないかといわれています。

東京都目黒区下目黒 目黒不動尊(瀧泉寺)
和犬像

◆「犬 イヌ(1) 弘法大師(空海)の和犬」(神使の館)
◆「犬 イヌ(2) 地主神の和犬」(神使の館)
◆「犬 イヌ(3) 目黒不動の「子連れ和犬」(神使の館)」(神使の館)

【狛犬の仲間たち】1-3. 狐

■1-3. 狐
 おそらく狛犬についで最も見ることができるのは狐ではないでしょうか。阿吽で一対になっていたり、子取り、玉取りのものも多くあり、非常に狛犬に近い形式で置かれています。

 稲荷神社は稲作を中心とする穀物の五穀豊穣を司る神を祀っていますが、その神使であるのが狐とされています(江戸時代に入ると、稲荷神は商売の神ともされました)。その由来には諸説あるのですが、食物のことを御饌ともいうことから、「御饌津神」(みけつ)とも言われていたものが、これを「三狐神」と読み替えたところからともいわれています。日本古来からあった狐信仰がその根源にあるのかもしれません。

 狐は口に玉や巻物、鍵を加えているものが多くあります(鍵は前脚の下に抱えていたりもします)。玉は神霊や富や財宝、巻物はご神徳が書かれたもの、鍵は宝箱あるいは蔵を開くものと解釈されていますが、これも詳しいことははっきりしていないようです。

◆「狐 キツネ(1)  農耕・食物神の狐…神道系稲荷のキツネ」(神使の館) - 狐像の写真。伏見稲荷大社など。

【狛犬の仲間たち】1-4. 牛

■1-4. 牛
 全国の天満宮では牛の像がおかれているところが多くあります。祀られている菅原道真には、
出生年は丑年、亡くなったのが丑の月の丑の日、牛車に乗り大宰府へ下った、牛が刺客から道真を守った、道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた…などと牛にまつわる多くの伝承があることから、牛が天満宮の神使となったとされています。また、道真公は学問の神様であることから、頭をなでると賢くなるともいわれています。

◆「天神信仰」(Wikipedia) - 菅原道真と牛の伝説。牛像の写真。
◆「牛 ウシ(2)  菅原道真の牛 - 1」(神使の館) - 菅原道真と牛の伝説。牛像の写真。

【狛犬の仲間たち】1-5. 猿

■1-5. 猿
 比叡山より生まれた山王信仰に基づいた日吉神社、日枝神社、山王神社といった神社では、猿が神使とされています。その由来は、比叡山における古来の信仰において、山に棲息するニホンザルを神の使いとしていたという説が有力ですが、詳しいことはよくわかっていません。猿を牛馬などの家畜の守護神とする厩神信仰との関わりも考えられています。

◆「厩神」(Wikipedia)
◆「東北地方の厩猿信仰」(日高見国)

【狛犬の仲間たち】1-6. 虎

■1-6. 虎
虎は毘沙門天を祀る寺に多く見ることができます。毘沙門天は寅年、寅の月、寅の日、寅の刻に出現し、聖徳太子が感得されたという伝説から、虎が神使とされました。ちなみに、インドでは財宝神とされていた毘沙門天は、中国を経て日本に伝わる頃には、四天王の一尊の武神・守護神とされるようになりました。

◆「虎 トラ 毘沙門天の虎」(神使の館) - 虎像の写真。

【狛犬の仲間たち】1-7. そのほかの神使

■1-7. そのほかの神使
 そのほかにも、以下のような神使がいることが知られています。

●鹿
 鹿は、奈良の春日大社、茨城の鹿島神宮、広島の厳島神社などにおいて神使とされています。鹿島神宮の祭神である雷神・武神とされた武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)のところへ、天照大御神が鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)を使わした、という古事記の神話に由来しています。その後、奈良時代になり、藤原氏が藤原氏の氏神である武甕槌大神を祀るため、春日大社を創建します。その際に、武甕槌大神が白鹿に分霊を乗せ奈良まで行ったとされていることから、春日大社でも鹿が神使となりました。奈良公園で鹿が放し飼いになっているのもそのためです。

◆「御祭神(ごさいじん) 」(鹿島神宮)
◆「鹿 シカ  鹿島神宮の祭神「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」の鹿」(神使の館) - 鹿島神宮と鹿、春日大社と鹿の伝説。鹿像の写真。

●兎
 住吉大社の神使は兎とされています。住吉大社の祭神は古事記や日本書紀に登場する住吉三神ですが、住吉三神とともに神功皇后も祀られています。その神功皇后がお祭りされた日が卯の日であったことから、兎が神使となったようです。大阪の住吉大社の手水舎には、かわいらしい兎の石像があり、その口から水が注がれています。

◆「住吉大社 / 境内案内と文化財 / 名所旧跡」(住吉大社) - 手水舎。

 また、調(つき)神社(さいたま市浦和区)でも、「つき」が「月」とかかることから、江戸時代より月の神の使いとされる兎が神使とされるようになりました。

◆「調神社」(Wikipedia)
◆「兎 ウサギ(1) 月の兎=調(ツキ)神社の兎」(神使の館)

 杉崎神社(福井県武生市)では、祭神が大国主命であることから、因幡の白兎の神話に因んで、兎の像が奉納されています。
◆「兎 ウサギ(3) 大国主命の兎(因幡の白兎)」(神使の館)

●烏
 熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)における神使は烏です。神武天皇の東征の際に、三本足の烏である八咫烏(やたがらす)が、熊野から大和までの道案内をしたとされる神話に基づいています。この烏は太陽の化身ではないかと考えられ、黒い鳥は太陽の黒点を意味するものではないかとも言われています。

◆「八咫烏」(Wikipedia)

●鳩
 鳩は、全国に約7800社あるといわれる八幡神社の神使とされています。その由来は、八幡神社の総本社である宇佐神宮(大分県宇佐市)から、石清水八幡宮(京都府八幡市)に分霊された際に、船の帆の上に鳩が出たという伝説にあるようですが、詳しいことはよくわかっていないようです。

◆「鳩 ハト  八幡神社(応神天皇)の鳩」(神使の館)
◆「石清水八幡宮」(Wikipedia)

●鶏
 伊勢神宮では、鶏が神使とされており、敷地内には多くの鶏が放し飼いになっています。鶏が神使となっているのは、祭神である天照大神が、天岩戸にお隠れになってしまった際に、岩戸から出すために長鳴鳥(鶏)が一役買ったという古事記の神話に由来しています。

◆「鶏 ニワトリ 天宇受売命(アメノウズメノミコト)の長鳴鳥(鶏)」(神使の館)

●鼠
 鼠は大黒天を祀る寺院・神社で神使とされています(大黒天とは、密教に由来する大黒天が大国主命と神仏習合した神で、豊穣の神とされています)。その由来は、大国主命が、須佐之男命の謀略によって野原で焼き殺されそうになった時に鼠に助けられたという神話から来ています。

◆「鼠 ネズミ 「だいこくさま」の鼠」(神使の館)
◆「大黒天」(Wikipedia)
◆「大国主の神話」(Wikipedia)

●蛇
 弁財天(弁天)は、インドにおける川の神であり、そこから神使は蛇だとされたようです。また、農業神・穀物神である宇賀神と弁財天が習合して、頭が人、身体が蛇の姿の像も作られています。

◆「蛇 ヘビ(1)  弁天・弁才天・弁財天の蛇」(神使の館)

●鯉
 大前神社(おおさきじんじゃ)(栃木県真岡市)の神使は鯉とされており、桃山時代末期の作といわれる本殿彫刻の中には、雌雄の鯉と鯉に乗る仙人(琴音仙人)が彫られています。また、境内にある大前恵比寿神社の恵比寿像は鯉を抱えています。その由来は、近くを流れる五行川下流で捕えた鯉を侍が調理しようとしたところ、腹から流れた血が「大前大権現」という文字になったという伝説にあるようです。

◆「トピックス」(大前神社) - 鯉にまつわる伝説。本殿彫刻「琴高仙人」 鯉に乗った琴の名士の写真。
◆「本殿彫刻」(大前神社)

 また、埼玉県栗橋町の八坂神社では、利根川の洪水の際に、神社の祭神である素盞鳴命(すさのおのみこと)の像が、鯉と亀に守られ流れてきたという伝説から、鯉と亀が神使とされています。

◆「鯉 コイ 栗橋町 八坂神社の鯉」(神使の館) - 鯉像の写真。

●猪
 愛宕神社の神使は、猪とされています。それは神社の創建者である和気清麻呂が、政敵であった道鏡に追放され、追っ手から逃げる際に猪に助けられたという故事に因んでいます(道鏡の神託事件)。また、愛宕神社だけでなく、明治時代になり和気清麻呂を祀って作られた護王神社や、出身地の岡山県和気町一帯や左遷先となった鹿児島県霧島市にある和気神社において、猪像を見ることができます。

◆「猪 イノシシ(2)  和気清麻呂の猪」(神使の館) - 和気清麻呂と猪の伝説。猪像の写真。
◆「猪 イノシシ(3)  愛宕(アタゴ)神社と勝(将)軍地蔵と猪」(神使の館) - 猪像の写真。

また、仏教においても摩利支天を祀る寺院には、猪像が置かれているところがあります。摩利支天は陽炎を神格化したものといわれていますが、軍神である一方、五穀豊穣の農業神ともされており、摩利支天像は三面六臂で、猪に乗っている姿で作られています。ここから猪が神使とされたと考えられています。

◆「猪 イノシシ(1)  摩利支天(マリシテン)の猪」(神使の館) - 各地の摩利支尊天堂にある猪像の写真。

●猫
 明治時代から昭和初期にかけて養蚕業が盛んだった地域では、蚕に被害をあたえる鼠から蚕を守るため、天敵である猫を飼っていました。そこから猫が、蚕神の神使とされました。

◆「猫 ネコ 養蚕、蚕神、保食命(ウケモチノミコト)の猫」(神使の館) - 猫像の写真。

【狛犬の仲間たち】3. シーサー

■3. シーサー
 沖縄で見られるシーサーは、日本の狛犬が沖縄に伝わったのではなく、14、15世紀頃に中国から沖縄(当時は琉球)へ伝わった獅子が独自に発展したものです。そして、沖縄では獅子を意味するシーサーという言葉でよばれるようになりました。しかし、その歴史をたどると、シーサーと狛犬の不思議な関係が見えてくるのです。

 シーサーは時代と役割によって、「宮獅子」、「村落獅子(御嶽獅子)」、「家獅子(屋根獅子、門獅子)」の三種類に分類できます。

●宮獅子
 14世紀後半に琉球が中国(当時の明)への朝貢貿易を始め、東アジアにおける中継貿易の拠点として栄えるようになると、このような交流の中で獅子が琉球に伝わりました。この時代の石獅子は、王宮や王族の陵墓に置かれており、現在でも首里城や玉陵(たまうどぅん)などで石獅子を見ることができます。その姿は中国獅子の姿をしていますが、徐々に琉球独自の表情をした石獅子もあわられてきます。

◆「首里城 | 施設案内 | 首里城正殿への道」 - 歓会門(かんかいもん)、瑞泉門(ずいせんもん)の項に石獅子の解説。

●村落獅子(御嶽獅子)
 中国から伝わった宮獅子とは異なり、民間伝承に由来するのが村落獅子と呼ばれるものです。その中で有名なのは東風平町(こちんだちょう)の富盛(ともり)の伝説です。伝説では、たびたび起こる火事に悩まされた住民が、村落の入り口に、火山とされた八重瀬嶽に向けて石造りの獅子を置いて火除けの神としたといわれています。この伝説が各地に広まり、17世紀以降に沖縄各地で村落や御嶽(うたき、信仰の対象となっている禁足地のこと)の入り口に、シーサーが設置されるようになりました。そしてそれらのシーサーは、厄除けや村落の守り神となっていきました。

◆「東風平町について - 東風平町へようこそ!」(東風平町) - 石彫大獅子の解説と写真。

●家獅子(屋根獅子、門獅子)
 現在、われわれがシーサーといって思い浮かぶのは、家獅子と呼ばれるもので、民家の屋根や門の上に乗っている姿ではないでしょうか。しかし、このように一般の民家の屋根にシーサーが設置されるようになったのは、庶民が瓦屋根を持った家を建てることができるようになった戦後になってからでした。

 明治時代になり、庶民に瓦屋根が認められたのですが、実際に瓦屋根を持った家を建てることができたのは、ごく一部の裕福な人に限られており、ほとんどの民家では茅葺き屋根が主流でした。屋根獅子は漆喰で作られていますが、これは屋根職人が瓦を葺いて余った漆喰で魔除けとして作ったのがはじまりといわれています。屋根獅子も、村落獅子と同様に単体で置かれているものがほとんどです。

沖縄県竹富町(竹富島)
民家の屋根に置かれた漆喰シーサー

 また門獅子は陶器で作られています。陶製のシーサーは、阿吽の一対で置かれ、尾を上げたいわゆるかまえ型のものも多くありますが、これらの様式は、本土の狛犬の影響を受けたと考えられています。

◆「沖縄シーサー紀行」 - 沖縄県の制作。
◆「シーサー私論」(狛犬について私が知っている2、3の事柄)

 このように今では本土ではほとんど作られなくなってしまった陶製の獅子が今も沖縄の多くの民家で見ることができるということと、本土では戦後になり急速に廃れつつある狛犬文化が、戦後の沖縄でシーサーと融合しつつ新たな発展を迎えていることに、狛犬とシーサーの不思議な巡り合わせを感じてしまいます。また、神社の境内でしか見ることが出来ない狛犬と比べ、シーサーが風水思想や魔除けといった庶民の信仰と深く結びつくことで、一般の家庭にまで深く浸透していることも非常に興味深いです。

【狛犬の仲間たち】4. 獅子鼻(木鼻)

■4. 獅子鼻(木鼻)
 神社や寺院の門や本堂などで、上を見上げると、木で彫られた獅子の姿を見つけることがあります。これを木鼻といいます。木鼻とは、縦の柱を横から貫いて出た柱(頭貫といいます、かしらぬき)の端の部分にほどこされた装飾のことです。木鼻には、雲や植物といったものから、象、獏、龍、獅子といった動物まで様々な形があり、その中でも獅子のものを獅子鼻と呼びます。木鼻はもともとは縦木から突き出た部分を彫刻したものでしたが、室町時代になると、別の木で掘ったものを取り付けるようになり、今日見ることの出来る装飾性に富んだ木鼻があらわれるようになりました。獅子鼻の中にも狛犬と同様に様々な表情のものを見ることができます。

京都府京都市下京区烏丸通七条上ル 東本願寺
御影堂門の獅子鼻

◆「木鼻とは」(狛犬と木鼻の館へようこそ)
◆「斗□・蟇股・木鼻のお話」(奈良の名刹寺院の紹介・仏教文化財の解説など) - 「木 鼻(きばな)」の項。 ※□は木へんに共。

【狛犬の仲間たち】5. 獅子頭(獅子舞)

■5. 獅子頭(獅子舞)
 正月や祭りの際に見られる獅子舞ですが、その獅子の頭の部分を獅子頭といいます。この造形は狛犬や獅子鼻(→「【狛犬の仲間たち】4. 獅子鼻(木鼻)」参照)に非常に似ており、厄を祓うという意味に置いても狛犬との共通点が見られます。それでは、この獅子舞の歴史を狛犬との共通点を中心に探っていきましょう。

●獅子の調教
 正倉院の中に、花樹の下で、鞭と手縄を持った獅子使いと二頭のライオンが描かれた織物があります。このことから、獅子舞は古代オリエントにおける獅子狩りや、ライオン調教の名残ではないかと推測されます。つまり、王の権威を高めるために、百獣の王であるライオンを王の玉座の下にひざまづかせる獅子座の思想が狛犬へとつながりましたが、同様にライオンを意のままに従えるだけの力と権威を示すのが獅子の調教であり、それが獅子舞につながった、と言えるのではないでしょうか。さらには、獅子の姿をして舞うことは、王の権威を象徴すると同時に、それを見る人々の邪を祓い、福をもたらすという観念をも生み出したのではないかと考えられます。

 宗教儀式としての獅子舞は、インドの遊牧民や農耕民が起源ともいわれています。それがやがてシルクロードを伝わり、中国にもたらされる一方、東南アジアにも広がっていったのではないかと考えられます。

●中国における獅子舞
 中国における獅子舞に関するもっとも古い記述は漢代のものだといわれています。唐代の詩人である白居易も詩の中で獅子舞の様子について述べています。このような獅子舞はやがて中国の舞楽に取り入れられていきました。現在の中国における獅子舞は、清の時代に確立されたといわれています。獅子頭と前脚に一人、後脚と背中に一人の二人と楽団で構成されており、主に旧正月や商店の開店祝いなどで舞われています。

●日本
 平安時代に書かれた「枕草子」には、天皇の行幸に獅子舞が従っていたという様子が描かれています。この中では「獅子・狛犬が舞った」とあります。前述(→「【狛犬の歴史】4. 奈良時代の狛犬」参照)のように、現在では一対で狛犬といわれますが、当時は「獅子・狛犬」と区別されていました。つまり、この時代は、狛犬と獅子舞の区別はなく、獅子舞も「獅子・狛犬」と呼ばれていたようです。さらに、角を持つものは、宮中や神社に置かれた獅子像においても、舞をするための獅子頭であっても、当時は「狛犬」もしくは「高麗犬」といわれていたようです。

 その後、この獅子舞が今日のような民俗芸能となったのは、16世紀初めに伊勢で飢饉が起きた際に、疫病を追い払うために獅子頭を作り、正月に舞われたのが始まりとされています。その後、17世紀に江戸で獅子舞が定着したことで、庶民の間に広まっていきました。

 現在の獅子舞は、西日本に多い伎楽(ぎがく)系の獅子舞と、関東・東北に多い風流(ふりゅう)系の獅子舞という二つの系統に分けられます。伎楽系の獅子舞は、正月や神楽で舞われることが多く(そのため、神楽系ともいわれます)、中に入る人数で大獅子、中獅子、小獅子に分かれます。一方、風流系の獅子舞は一人が一頭の獅子に入り、太鼓を打ちながら舞います。関東地方では三匹一組の三匹獅子舞が見られ、山間部の農村では一般的な郷土芸能・民俗芸能となっています。

●獅子頭信仰
 また、獅子頭が獅子舞から離れ、それ自体が信仰の対象となっている神社もあります。埼玉・玉敷神社では、神宝である獅子頭を人々が貸し出して祀った後に、家々を祓って歩くという神事が伝わっています。東京・波除稲荷神社には、金箔・金箔で飾られた獅子頭が祀られており、頭に着いた宝珠の中には神像が収められています。大阪・難波八坂神社には、巨大な獅子殿があり、この神社の御祭神である牛頭天王(ごずてんのう)の憤怒の形相をあらわしているとのことです。このように獅子頭そのものが信仰の対象となるということは、狛犬にはない特徴だと言えるでしょう

●沖縄
 また、沖縄でも獅子舞は伝統芸能として各地で受け継がれており、豊年祭や旧盆の行事で演じられています。獅子舞は悪霊を祓い、五穀豊穣・子孫繁栄などをもたらすといわれ、三線や太鼓の演奏やエイサーの演舞にあわせて舞われます。沖縄の獅子舞の特徴は胴体も足も含めた獅子の着ぐるみとなっていることです。また、沖縄本島や周辺離島では一頭で、宮古・八重山地方では雌雄二頭で舞われます。沖縄の獅子舞は、その演目や様式の多さから、中国だけでなく、本土からも数回に渡って伝播したものが次第に習合されて出来上がったのではないかといわれています。

●バリ島のバロンダンス
 実は、インドネシア・バリ島にも獅子舞に非常に似たバロンダンスという伝統芸能があります。バロンダンスとは、獅子に似た長さ3メートルほどのバロンといわれる霊獣がランダという魔女と終わりのない戦いを繰り広げるというヒンドゥー教の神話をもとにした物語にあわせて舞われるものです。バロンダンスは、下顎が動きカチカチと音を鳴らす獅子頭の構造や、二人一組で舞う姿が獅子舞に非常に似ていますす。また、人々に吉をもたらし凶を祓うものとされていることや、バロンは使われないときは寺院の祠にしまわれ御神体とみなされていることなども、獅子舞との共通点といえるでしょう。このバロンダンスの由来ですが、10世紀頃に仏教の伝道氏がバリにやってきた後に現在のバロンとランダの原型が伝えられたという説や、16世紀にジャワのヒンドゥー教の影響を受けたバロンが厄払いのためにバリに持ち込まれたという説などがあるようです。


◆「獅子舞 | 日本文化いろは辞典」(日本文化いろは辞典)
◆「沖縄好きのための沖縄情報サイト|おきぽた|沖縄の歴史と伝統|獅子舞」(おきぽた)
◆「これもまたシーサーの仲間」(沖縄シーサー紀行)
◆「バロン(barong)」(ウブド・バリ「アパ?情報センター」)
◆「獅子舞」(Wikipedia)
◆「バロン(聖獣)」(Wikipedia)

2010年2月14日日曜日

【狛犬豆知識】1. 狛犬の置かれた場所

■1. 狛犬の置かれた場所
 奈良時代に日本に狛犬が伝わった際には、狛犬は宮中で御簾や几帳の前に置かれた金属製の調度品でした(→「【狛犬の歴史】4. 奈良時代の狛犬」参照)。やがて、狛犬は宮中から出て、神社や寺院の本殿内に置かれるようになり、木製の中型のものへと変わっていきます。これを「神殿狛犬」と呼んでいます。さらに、狛犬は屋内を飛び出して本殿の御扉や拝殿の前、さらに拝殿の縁側にも置かれるようになり、大型化していきました。

 その後、神社に随身門が設けられるようになると、随身門に狛犬を置くようになり、さらに随身門がない場合でも本殿の前に随身が置かれるようになって、そこにも狛犬が置かれるようになっていきました。また、本殿から出た狛犬は、拝殿の前、参道の途中、さらに境内からも出て神門の前にも置かれるようになっていきます。この場合、狛犬は殿外に設置されるため、風雨に強い石造りの狛犬が必要とされるようになりました。このような動きは室町時代後期に始まり、江戸時代初期に確立したといわれています。これを「参道狛犬」と呼んでいます。

【狛犬豆知識】2. 狛犬と阿吽

■2. 狛犬と阿吽
 左右一対で置かれた狛犬のうち、口を開いているものを阿形(あぎょう)、口を閉じているものを吽形(うんぎょう)というのは、これは仁王像に由来した形式です。仏教における仁王は釈尊の守護をする役目でしたが、中国へ入ると中国古来の門神の置き方にならって一対で阿吽の表情をした怒髪天を衝くような姿に変わっていきました。明治時代以前の神仏習合の時代には、神社にも仁王像が立っており、仁王は「阿吽」の表情をしていました。神仏習合時代に成立した本地垂迹説では神社の御祭神は仏教の仏(本地仏)が仮に姿を現したものだと考えられていました。ここから本地仏を守護する仁王をまねて、御祭神を守護する獅子・狛犬も阿吽の表情をするようになったと考えられています。平安時代にはすでに阿吽の形はできあがっていたことがわかっています。中国の唐代に造られた獅子にも阿吽の表情をしているものもあるが、決して例は多くなく、阿吽の表情は日本において確立したと考えるのが妥当でしょう(上杉千郷氏)。

 それでは仁王(獅子・狛犬)の示す阿吽の表情は、何を意味しているのでしょうか。

 そもそも、阿吽という言葉はサンスクリット語に由来しています。阿は初めの韻、吽は終わりの韻であり、そこからインド哲学ではこの二つで一切万有の原理を示すようになったと言われています。またそこから、対になる者のモチーフとして使われるようになりました。敦煌で出土した唐代の織物には有翼で阿吽の表情をし、口から「雲気」を吐いている一対の獅子の姿があります。「雲気」とは、中国の神仙思想につながるもので、「気」を多く発するものが「神仙」であり、インドから仏教が伝わると仏こそが「神仙」であるとされました。そして仏はその肩口からあたかも雲のような「気」を溢れさせる姿で表現されるようになっていったのです。このように阿吽の表情とは、神聖な霊力を示すものであると考えられています(上杉千郷氏)。このように考えてみると、阿吽の表情は、聖俗の境界線上にあって、聖なるものを守護する役割を持っており、阿吽はその内側は聖域であるということを示しているとも考えられます(liondog氏)。

◆「狛犬雑感 - 阿吽の意味するもの」(狛犬について私が知っている2、3の事柄)

 つまり一対の仁王(獅子・狛犬)の阿吽の表情は霊力の証であり、阿吽のもたらす神聖な霊力によってその先にある仏(御祭神)を守護しているのだということを意味しているのではないでしょうか。

【狛犬豆知識】3. 狛犬の左右

■3. 狛犬の左右
 通常は本殿から見て左側に阿形、右側に吽形が置かれていますが、この左右の区別の由来は古代中国にさかのぼります。

 古代中国において南向きに座っている天子から見て左側は東であり太陽の昇る方向でした。そのため、左側(東)が上位、右側(西)が回であるという左優位の思想が誕生しました。その思想は日本にも伝わり、神社や寺院においては、神や仏から見て左(礼拝する人から見ると右)にあるものが上位とされたのです。獅子が左で、狛犬が右であるということ、「獅子・狛犬」の順に呼ぶことは、獅子の方が狛犬よりも上位であるということを意味しています。ではなぜ獅子が狛犬より上位かというと、当時の日本人は獅子は中国本来の動物で、狛犬は中国に対する異国の獣であると考えていた(「狛」という語は広く「異国のもの」)を指す語だと考えられる)からではないかといわれています。

 つまり、本来は左側に獅子、右側に狛犬だったのですが、その後獅子・狛犬の区別がなくなると、左側が阿形、右側が吽形というようになっていったのでしょう。

【狛犬豆知識】4. 狛犬と角

■4. 狛犬と角
 狛犬には角があるものがありますが、これは古くからの獅子・狛犬の様式に基づいたものです。平安時代に書かれた『類聚雑要抄』という書物には、「(天皇から見て)左の獅子は黄色(金色)で口を開けていて、右の狛犬色は白く(銀色)口を閉じており角がある」と書かれています。角の形状は、一本の角の場合もあれば、前後に枝分かれしたようなものもあります。それではなぜ、狛犬は角を持つとされたのでしょうか。

 古代オリエントから中国に伝わった際には獅子に角はありませんでした。しかし、中国から日本に唐獅子が伝えられた際に、一方は中国の霊獣である獅子、一方は「異国の獣」であり想像上の動物である狛犬とされました(→「【狛犬豆知識】3. 狛犬の左右」参照)。こうして、狛犬は獅子とは違う獣とされ、頭に一角を載せて獅子と区別されたと考えられています。角を持った狛犬のモデルとしてはサイが原型とされる「ジ」(縁起のよいものとされていた)ではないかとも、中国の想像上の怪獣である「カイチ」(人の正邪を見分け邪悪を祓うものとされていた)ではないかとも言われているようです(上杉千郷氏)。

◆「カイチ」(Wikipedia)

 やがて、獅子・狛犬の区別が曖昧となり、角を持った狛犬が造られることは少なくなっていきました。しかし、江戸時代になっても獅子・狛犬の様式が踏襲された関西の狛犬や、また明治時代以降に伝統的な木造狛犬を模して造られた狛犬には角のあるものが多く見られます。

【狛犬豆知識】5. 狛犬の雌雄

■5. 狛犬の雌雄
 狛犬には雌雄の違いがわかるようになっているものも少なくありません。しかし、狛犬の阿吽の違いは、仁王から来ており、本来両方ともオスである(というより、性別はない)というのが答えです。また、そもそも狛犬の祖先であるライオンでたてがみがあるのはオスのみですし、日本でもかつては獅子・狛犬という異なる生物が対になったものと考えられていたわけですから、同じ生物の雌雄という考え方自体がそもそも存在しないのです。そのため、獅子・狛犬が仏師によって造られていた平安・鎌倉・室町時代には、雌雄の区別はありませんでした。

 しかし、江戸時代になり地方の石工が自由に狛犬を造るようになった時、阿吽は仁王に由来するという由来が忘れ去られ、自己流の解釈や様々な俗説が信じられるようになったことが、雌雄の区別のある狛犬が作られるようになった原因のようです。例えば、陰陽思想に基づき、「阿」は「陽」であるからオス、「吽」は「陰」であるからメスとされているものもある一方、その逆に弱い犬はすぐ吠えるから阿がメス、角がある方が強いから吽がオスとする説もあります。また、花嫁は角隠しをするから吽がメスという考えに至るまで、さまざまな俗説があったようです。

【狛犬の歴史】0. はじめに

■はじめに
 狛犬は、古くは獅子・狛犬と呼ばれ、左右で別の獣として区別されていました。現在では一対で狛犬と呼ばれていますが、優雅に流れるたてがみからその由来が獅子(ライオン)にあることを知ることができるでしょう。それでは、日本には生息しないはずのライオンがどのようにして日本に伝わり、そして狛犬と呼ばれ、神社に置かれるようになったのでしょうか。

 日本の狛犬のルーツをたどると、古代オリエント、メソポタミア、エジプトにまで遡ることができます。そこで生まれた獅子座の思想が、アレクサンダー大王の東征によりインドにもたらされ、仏教と出会います。そして仏教とともに中国に伝わったライオンは唐獅子となり、やがて奈良時代の日本に伝えられたのでした。当初は宮中の金属製の置物であったものが、やがて仏師によって木彫りで造られるようになり、日本独自の獅子・狛犬という形態となったのです。それが、室町時代の頃から神社の境内に進出し、今われわれが目にする石造の参道狛犬という形式が確立したのは江戸時代のことでした。江戸末期から、明治・大正時代が狛犬の黄金期と呼ばれており、現在われわれが目にすることの出来る狛犬の多くがこの時代に造られたものです。

 それでは狛犬のルーツを古代オリエントの時代から詳しくひもといていきましょう。

【狛犬の歴史】1. 古代オリエントとライオン

■1. 古代オリエントとライオン
・獅子狩りと王家
 古代オリエントにはかつてライオンが生息していました(ヨーロッパでは紀元100年頃に絶滅し、ユーラシア大陸でもインドの一部を除き絶滅しています)。ライオンの生息していた時代、強い力を持つ獅子を倒す獅子狩りは、王家を讃え、王家の力を誇示することを意味していました。その一方で、王家や貴族たちは、獅子の強い力や威厳に憧れ、獅子を護符や印象の模様ともしていました。
 古代メソポタミア文明(紀元前3500年頃)時代の遺跡からは、黄金や銀製の獅子で飾られたソリ型の戦車、獅子の浮き彫りのある楯といった武具や、擬人化された獅子などの動物が描かれた楽器などが発見されています。また、槍や弓を持った武人が獅子を追うモチーフの絵画や彫刻や、獅子模様の彫刻が施された王の墓も多く残されています。

・獅子座の思想
 古代エジプトのツタンカーメン王(在位紀元前1347年〜1339年)の玉座には獅子があしらわれ、椅子の全面には獅子頭が、脚も獅子足になっていました。また、イスラエルのソロモン王(在位紀元前965年〜925年)の玉座の肘掛けの脇には二頭の雄獅子があしらわれ、6段の両脇には12頭の雄獅子が立っていたと旧約聖書に書かれています。
 これらのように、玉座に座り百獣の王である獅子を脚の下に従えることは、王にとって人々に威厳を示すことを意味していました。そして、権威の象徴として用いられるようになった獅子は、次第に実際の動物というよりも強い霊力を持った霊獣として認識されるようになっていったと考えられます。霊力を王の権威付けとしたり、王位が永遠に続くことを願うという呪詛的な性格を帯びてくる(人々に見せつけるだけでなく、身につけていることで安心できる、願をかけるということ)、これを「獅子座の思想」といい、やがてオリエントから各地に広がっていきました。

・グリフォンとスフィンクス
 南メソポタミアの都市国家ラガシュ(紀元前2300年頃)の紋章には二頭の獅子の頭の上に鷲が両翼を広げている姿が描かれています。このように胴は獅子、鷲の頭と翼を持つグリフォンという霊獣が誕生しました。アッシリア帝国のニネヴェ王宮(紀元前7世紀頃)の入口にも、頭は人、胴はライオン、鷲の翼を持った巨大な石の霊獣が設置されていました。この人間の頭は知恵を象徴しています。これらの有翼の霊獣は、王宮や神殿を守る役目を持っていたと考えられています。
 そして、獅子の胴に人間の頭を加えることでできあがったのがスフィンクスです。ギザの大スフィンクスが作られたのは紀元前2500年頃、その後も神殿やピラミッドを守護する巨大スフィンクスから、王や王女の顔を持つ小さなスフィンクス(第12代王朝ヒクソス族のスフィンクス)まで様々なものが造られました。このエジプトで生まれたスフィンクスは、やがてシリア、フェニキア、バビロニア、ペルシャ、小アジア、ギリシャなどにも広がっていったのです。
 ギリシャ神話ではスフィンクスは上半身は人間の女性、下半身は翼のある獅子という姿で、謎をかけて解けない者を殺すという人間に災いをもたらす恐ろしいものという性格で現れています。
 この時代にヨーロッパ各地に広がっていった守護獣としての獅子の伝統は、現在にまで脈々と受け継がれています。それはヨーロッパの王侯貴族の紋章に引き継がれ、現在の国章にも獅子が描かれたものが多いことからもわかります。

・獅子門の誕生
 紀元前15世紀半ばに小アジアのヒッタイトの中心地であったボガツケウイで発見された獅子門には、半楕円形のアーチ状となっている門の左右に獅子の姿が浮き彫りになっています。また、古代ギリシャ(紀元前12世紀頃〜7世紀頃)の首都であったミケーネでは、シュリーマンによって城の獅子門が発見されています。この獅子門の上部には大きな二頭の獅子が彫られており、二頭の獅子が向き合って城を守る構図となっています。これらの獅子が左右一対となって城内を守護する姿は、やがて仏教における獅子にも取り込まれていくのです。

【狛犬の歴史】2. 仏教と獅子(インド)

■2. 仏教と獅子(インド)
 これまで見てきたように、古代オリエントで生まれた獅子は様々な文化とともに各地に伝播し、やがてシルクロードによってインドにもたらされていきました。そして紀元前326年頃にアレクサンダー大王はインドに侵入すると、東西文化の交流がいっそう盛んとなりました。紀元前268年、マウリア王朝のアショーカ王は仏教を守護し、仏教の聖地サルナートに記念石柱を建てました。この石柱は4頭の牡獅子が円盤上に乗り、東西南北を睨む構図となっています。このような様式はペルシャのペルセポリス宮殿(紀元前520年〜331年)にも見られます。

 インドではかつては多くのライオンが生息していたこともあり、獅子座の思想は受け入れやすかったのだと考えられています。このようにして伝わった獅子座の思想は、まずヒンドゥー教においてみられるようになりました。ヒンドゥー教では宗教的儀礼のための殿堂があり、そこにはシヴァ神やそのほかのさまざまな神々の像が置かれています。その中には獅子を踏みつける神や獅子にまたがる女神ドゥルガーの姿があり、シヴァ神を祀るヒンドゥー教寺院の本堂には、その両側に獅子を踏んだ女神が置かれています。

 紀元前5世紀頃に生まれた仏教では、当初は釈迦が神像を禁じていましたが、紀元後1世紀、仏教を保護したクシャーナ朝のカニシカ王がガンダーラへ遷都した頃から、仏像が作られるようになっていきました。この頃、仏像が作られたのは、ガンダーラとマトゥラーという二つの地方でした。ガンダーラではギリシャ神話の神々に似た姿で、マトゥラーではインド的な姿で作られましたが、ともに釈迦は獅子座に乗った姿で表されるようになっていきました。最初は仏像の台座の肘掛けから脚部が獅子をかたどっていたものとなっていましたが、やがて台座の下の左右と中央に獅子が彫り込まれるようになっていきました。また、釈迦如来(釈迦を仏として敬う呼び方)は獅子王と称し、仏は人中の獅子であるともされました。

 このようにしてインドで生まれた仏教に獅子座の思想が取り入れられると、やがてシルクロードと仏教という二つのルートで中国に伝わっていくことになります。

【狛犬の歴史】3. 唐獅子の誕生(中国)

■3. 唐獅子の誕生(中国)
 中国では仰韶文化(新石器時代、紀元前5000年〜3000年)、龍山文化(紀元前3000年〜2000年頃)の時代から想像上の動物が陶器の文様として描かれており、それは霊力を持った霊獣として考えられていました。また殷(紀元前17世紀〜1046年、青銅器時代)の時代には、青銅器の全面に霊獣をびっしりと組み合わせた「饕餮文(とうてつもん)」といわれる文様も描かれています。このように古代中国では神に奉仕する動物として龍や鳳凰といった数々の霊獣が描かれる伝統があったのです。

 漢の武帝の時代(在位紀元前141年〜87年)に、中国と西方世界の交流が始まると、オリエントからシルクロードを通って獅子が漢に伝えられました。その後、後漢の初め(1世紀頃)に中国に仏教が伝来すると同時に獅子座の思想も中国へ入っていったと考えられています。この時代に作られた山東省・武氏祠の獅子(209年頃)には有翼のものがあります。このような獅子はやがて少なくなり、時代が下るにつれて獅子の首には飾帯といわれる首飾りや鈴がつけられるようになっていきました。また五胡十六国時代(304年〜439年)に作られた仏像の台座の左右には牡獅子が彫られています。この獅子は日本の狛犬とは違い、両方とも大きく口を開き、蹲踞の姿勢はしていません。もともと中国では帝陵や貴族の墳墓に石獣や石人を参道の左右に一対で立てる風習がありました。唐の高宗・乾陵の石造獅子は参道の陵にもっとも近いところに一対で置かれています。こうして獅子座の思想とともに、左右一対で獅子を置くという形式が定着していったと考えられます。

 こうして、シルクロードと仏教という二つのルートから伝わった獅子という猛獣は、中国古来の霊獣と同化して、「唐獅子」という新たな霊獣を生み出しました。そして、守護獣としての唐獅子は漢代以降、墳墓や祠堂の前に多く置かれるようになり、唐代に入ると霊獣にふさわしい力にあふれた表現とその様式が完成していきます。それらはやがて遣唐使などを通じて日本に入ってくることになるのです。

【狛犬の歴史】4. 奈良時代の狛犬

■4. 奈良時代の狛犬
 日本への仏教伝来は6世紀半ばの欽明天皇の頃だといわれています。現在でも東大寺・正倉院には獅子が足や柄にあしらわれた香炉などの多くの金属製の仏具が保管されています。このように日本に伝来した当初、獅子は仏具のひとつとして伝わったのではないかと考えられます。そしてこの頃、一対の獅子であったものが、獅子・狛犬と左右で違う獣として認識されるようになったようです。当時は獅子は中国本来の動物で、狛犬は中国に対する異国の獣であると考えていたようです(「狛」という語は広く「異国のもの」を指す語だと考えられています)が、詳しいことはまだわかっていません。

 やがて、銅製の獅子・狛犬(以下、狛犬とします)は、宮中の御簾、几帳などを押さえる鎮子や即位式の際の守護として用いられるようになります。それが次第に、神社や寺院の神像の守護としての役割を持つようになりました。罪やケガレを祓うという伝統的なの思想が、仏教と通して日本に伝わった獅子座の思想と結びつき、狛犬は神護警衛として邪悪を祓うという特別な力を持つものとされたのではないかと考えられています。

【狛犬の歴史】5. 平安時代の狛犬

■5. 平安時代の狛犬
 宮中や神殿内に調度品として置かれていた狛犬はそのほとんどが金属製(銅製)でしたが、狛犬が広がっていくにつれ、量産の必要性に迫られるようになったため、次第に仏師の手によって木彫りで作られるようになっていきました。また、当初は唐から輸入された獅子の姿を写していたものが、藤原文化の影響を受けて、徐々に柔和な雰囲気を持ち、くぼんだ目、細い胴、まっすぐに流れるたてがみ、揃った脚、地面におろした腰(蹲踞の姿勢、そんきょ)など、静かで日本的な姿となっていきました。この当時、神社などに新しく狛犬を寄進する際、その姿形は仏師たちの自由な完成にまかされていたようです。一方でこの時代には、まだ日本化されずに唐の影響を強く受けたままの狛犬も作られていました。

 現存する最も古い狛犬は平安時代末期のものとみられる木彫りの狛犬です。この時代に狛犬を作る際には、有職故実という典儀によって色彩、形態などが厳格に守られていたようです。この中では獅子・狛犬に関して、「天皇から見て左(向かって右)が獅子と呼ばれ、口を開けており(阿形)、角がなく、色は黄色(金色)でたてがみが巻き毛」、「天皇から見て右(向かって左)は狛犬と呼ばれ、口を閉じており(ウン形)、角があり、色は白く(銀色)たてがみは直毛」という記録が残されています。この頃にはすでに後の獅子・狛犬にみられる特徴が確立していたことがわかります。この様式は京都御所紫宸殿の覧聖障子に描かれた獅子・狛犬の絵に見ることができます(描かれた年代は特定できていませんが、9世紀と考えられています)。

【狛犬の歴史】6. 鎌倉時代の狛犬

■6. 鎌倉時代の狛犬
 鎌倉時代の狛犬は写実的で今にも飛びかかろうとしているような精悍さがあります。日本独自の獅子・狛犬という霊獣としての様式が完成したことが伺えます。玉眼技法という手法によって、瞳とそれによる表情をよりリアルに見せることができたようです。この頃は、ヒノキの寄木造りで、全身は漆箔で仕上げられていました。鎌倉時代の仏師たちはそれぞれに独自の作風を作り上げ、それぞれの個性が尊重されていたようです。そのため、同じ時代の狛犬でも仏師の個性によってさまざまな印象を与えてくれます。

 日本最古の石造狛犬といわれる奈良・東大寺南大門にある狛犬が作られたのはこの時代です(1196年)。宋の鋳物師であった陳和卿(ちんなけい)が、宋から輸入した石材で作りました。口は両方とも阿形であり、瓔珞(ようらく)と呼ばれる胸の首飾りがあるなど、当時の中国・宋の影響が色濃く出ているため、正確には中国獅子の様式だと言えます。しかし、この狛犬は日本最古の石造狛犬という由縁から、明治以降の狛犬の様式に大きな影響を与えることとなりました。

【狛犬の歴史】7. 室町時代の狛犬

■7. 室町時代の狛犬
 鎌倉時代後期に入ると、軽快で個性的な作風から次第に重厚化した作風の狛犬が増えていきました。そして、南北朝時代には、頭部と上体に重きを置いて迫力を演出させるようになります。室町時代の代表的な狛犬は体全体が筋肉質で肋骨が盛り上がっていて、躍動感にあふれています。やがて、戦国時代に入ると、肩の盛り上がった力強さは消え、全体的に簡素で丸みを帯びた優しい感じとなっていきます。この時代には大名や武将が奉納したものが多くみられるようになっていきました。

【狛犬の歴史】8. 江戸時代の狛犬

■8. 江戸時代の狛犬
 室町時代後期からは、狛犬は従来の屋内から徐々に境内に進出し、江戸時代初期に現在のような石造の参道狛犬の形態が確立したと考えられています(→「【狛犬豆知識】置かれた場所」参照)。それとともに、狛犬の作り手も仏師から、一般の石工へと変わっていきました。しかし、当時の江戸時代の庶民や地方の石工は、それまでの宮中や本殿内に置かれた狛犬を実際に見たこともなく、手本とする作品を目にする機会もほとんどありませんでした。そのため彼らは想像力を働かせて自分なりの狛犬を作ることになったため、石工の数だけユニークな狛犬が誕生することになったのです。そしてこの頃、獅子・狛犬と呼ばれていたものが、次第に両方をあわせて狛犬と呼ぶようになっていき、獅子というより犬に似た造形のものが増えていきました。

 また、この時代になると、商人や町人などの一般庶民が狛犬を奉納するようになりました。この頃の石灯籠は諸大名が寄進するものが多く、それに対して狛犬は一般庶民が奉納するものであったとも考えられています。そのためか、狛犬の表情に猛々しいところがなくなり、庶民の素朴な信仰心が込められたさまが伺えます。当初は素朴な作りのものが多かったのですが、時代を下るにつれ石工の技術が向上すると、江戸時代後期には子獅子を連れていたり、玉をもった姿の狛犬も現れるなど、地方色が豊かになり、庶民文化としての狛犬は黄金期を迎えることになりました。

 ここからは、江戸時代の狛犬をいくつかの類型に分類して、それぞれの特徴をまとめていきます。

【狛犬の歴史】8-1. 江戸はじめ
【狛犬の歴史】8-2. 白山狛犬
【狛犬の歴史】8-3. 肥前狛犬
【狛犬の歴史】8-4. 仙台タイプ
【狛犬の歴史】8-5. 江戸獅子(江戸型、関東型)
【狛犬の歴史】8-6. 浪花狛犬(浪花型、関西型)
【狛犬の歴史】8-7. 獅子山型
【狛犬の歴史】8-8. 出雲型(かまえ型)
【狛犬の歴史】8-9. 逆さ獅子
【狛犬の歴史】8-10. 佐渡兜
【狛犬の歴史】8-11. 宝珠(天神系)
【狛犬の歴史】8-12. 玉獅子

【狛犬の歴史】8-1. 江戸はじめ

■8-1. 江戸はじめ
 狛犬が参道に置かれるようになった江戸時代初期の素朴な形態の石彫狛犬は「江戸はじめ」といわれています(落語家で狛犬研究家としても有名な三遊亭円丈師匠が命名したそうです)。石工の技術がまだ未熟であったため、彫りは浅く、素朴な形が特徴で、他の時代には見られないユニークなものが数多く見られます。

<特徴>
・大きな石が手に入らないため全体的に小振り
・石を横長に使うため背は低く、四つん這いの姿勢
・後脚はたたんでいても完全な蹲踞の姿勢にはなっていない
・胴体の下や脚の部分がくりぬかれていないものも多い
・たてがみの毛先だけがカールしており、尾が背中にくっついている
・高い台座にのっておらず、地面の上に置かれている

東京都目黒区 目黒不動尊(瀧泉寺)
拝殿前の狛犬 承応3年(1654年)
江戸最古の石造狛犬として有名

【狛犬の歴史】8-2. 白山狛犬

■8-2. 白山狛犬
 北陸地方や飛騨地方を中心に多い白山神社に見られる狛犬で、越前(福井)で採掘される笏谷(しゃくだに)石という細工しやすい柔らかい石で作られており、色がやや青白いのが特徴です。青森、京都、愛知でも同型の狛犬が見られます。これらは北前船以前に全国に運ばれていたようです。
 ちなみに、白山狛犬(上杉千郷氏、小寺慶昭氏)三国湊狛犬(橋本万平氏)、越前禿(かむろ)狛犬(鐸木能光氏)、笏谷石狛犬(鐸木能光氏)などと様々な名称で呼ばれているようです。

<特徴>
・かなり小型(もともとは殿内に置くための石造りの小さな狛犬だったのではないかといわれています)
・おかっぱのような頭
・後脚の間がくり抜かれていない
・たてがみの毛先は内向きにカールしており、尾は細く背中にくっついている
・牙や眉がはっきりと彫られている
・両肩に小さな翼のような模様があるものもある

【狛犬の歴史】8-3. 肥前狛犬

■8-3. 肥前狛犬
 江戸時代初期にほぼ佐賀県でのみ作られていた狛犬で、30センチほどの非常に小さなものがほとんどで、台座がなく、地面に直接置かれています。目は小さく、口もあまり開けておらず、阿吽の区別もあまりはっきりしないのが特徴です。

【狛犬の歴史】8-4. 仙台タイプ

■8-4. 仙台タイプ
 1700年代後半から江戸時代末期にかけて作られたもので、宮城県仙台市から塩竈市にかけてのみ見られるものです(これも三遊亭円丈師匠が命名したそうです)。素朴な表情でありながら、たてがみなどには丁寧な細工も見られることから、江戸はじめとそれ以降の狛犬の橋渡しのような位置づけといえるかもしれません。

<特徴>
・むき出しの歯
・こぶのようなたてがみ
・蹲踞の姿勢で座り腹の下がくりぬかれていない
・前足がわずかに前後に開いている

【狛犬の歴史】8-5. 江戸獅子(江戸型、関東型)

■8-5. 江戸獅子(江戸型、関東型)
 江戸では派手さや豪華さが好まれ、美しい毛並みを持った唐獅子タイプの狛犬が造られました。当初は蹲踞した姿のものが多かったのですが、次第に動きのあるものへと発展し、やがてその流れの中から獅子山型が生まれました(→「【狛犬の歴史】獅子山型」を参照)。

<特徴>
・前髪はカールしており、真ん中分け
・目は小さく楕円形、目玉の瞳がない場合が多い
・伏せ耳が多い
・鼻はそれほど大きくない
・あご髭があり、前髪同様にカールしている
・歯はあまり彫り込まれていないか、犬型の歯が多い
・たてがみは長く、体に巻きつくように流れている
・尾は、江戸初期のものは立っているが、後期からは下がって体に巻き付いている
・子連れ(一〜三頭)や玉を手に持つといったバリエーションが多い
・姿勢は猫背で、丸みを帯びた背中をしている
・前脚を上げていたり、立ち上がっていたり、動きがある

【狛犬の歴史】8-6. 浪花狛犬(浪花型、関西型)

■8-6. 浪花狛犬(浪花型、関西型)
 関西では江戸とは異なり、蹲踞の姿勢がその後も大きな変化を見せず、獅子・狛犬の様式もかなり長くとどめられました。そのため、吽形に角があるものが多いのも特徴です。

<特徴>
・前髪はほとんどないが、太い眉がある
・目は大きくギョロ目、目玉の瞳がある場合が多い
・折れ耳、横耳が多い
・鼻はいわゆる獅子鼻、団子鼻が多い
・あご髭はあごの真下になく、両脇に瘤状に描かれている
・人のような唇(二重に縁取りされている)
・歯はむき出しに彫られており(特に阿型)、形状型は人間型(獅子頭型)が多い
・尾は、うちわ型で直立している
・子獅子はほとんどいない(いても一頭)
・まっすぐに背筋を伸ばした姿勢
・蹲踞の姿勢がほとんど
・顔の表情は人面に近い
・吽形の頭部に角があるものが多い

【狛犬の歴史】8-7. 獅子山型

■8-7. 獅子山型
 江戸時代中期以降に作られるようになったもので、溶岩で大きな獅子山を作り、山の上にいる親獅子が、子獅子の這い上がってくるのを見下ろしたり、今にも飛びかかろうとする動きのある姿で彫られているものを獅子山型といいます。この構図は「獅子は子供が生まれて三日たつと、千尋の谷に突き落とし、勇気を試す」という仏教説話から生まれています。獅子は関東型の華麗な唐獅子タイプで、関東地方に多く見られますが、全国的にも広く作られたようです。
東京都墨田区向島 牛嶋神社
獅子山型狛犬 文政11年(1828年)

【狛犬の歴史】8-8. 出雲型(かまえ型)

■8-8. 出雲型(かまえ型)
 出雲地方では、後ろ脚を跳ね上げたり、腰を大きく浮かし前脚をかがめ、今にも飛びかかろうとする躍動的な狛犬が作られました。これを出雲型(かまえ型)といいます。天明年間(1781年〜1788年)になって生産が始まると、江戸時代末期から明治、大正にかけて大量に造られました。出雲型は北前船によって、北海道の日本海沿岸や、東北・北陸などの地方に多くの狛犬が運ばれ、今でも日本海沿岸では多くの出雲型が見られます。松江の宍道湖畔でしか取れない来待石という柔らかい砂岩で造られているため、自由な造形が可能となりました。しかしその分、風化、摩耗しやすく、古いものはほとんど形が崩れてしまっています。

【狛犬の歴史】8-9. 逆さ獅子

■8-9. 逆さ獅子
 石川・金沢市近郊では、後ろ脚を頭近くまで跳ね上げた出雲型よりもさらに躍動感のあるタイプが作られました。逆さ獅子(上杉千郷氏)、加賀の逆立ち狛犬(鐸木能光氏)などと呼ばれているようです。

【狛犬の歴史】8-10. 佐渡兜

■8-10. 佐渡兜
 佐渡の狛犬の多くは、顔が扁平で胴長、たてがみがくっきりと分かれているため、頭がヘルメットを被ったような姿をしています(鐸木能光氏が命名したようです)。

【狛犬の歴史】8-11. 宝珠(天神系)

■8-11. 宝珠(天神系)
 江戸時代に江戸で造られた狛犬の中には吽形に角があるだけでなく、阿形の頭に宝珠(摩尼珠)を載せているものがあります(宝珠とは仏教においてあらゆる願いを叶える玉とされています)。この時代になって初めて現れたこの形式は、実は寛政六年(1794年)に発行された「諸識画鏡」という職人に向けた図画集に描かれた姿を手本としています。この図画集では本来角があるべき狛犬(吽形)に宝珠が載っており、角がないはずの獅子(阿形)に角がありました。この様式をそのまま真似たため、この形式が普及したようです。しかし、その誤りに気付いたのか、明治時代になるとこの形式は姿を消してしまいました。

【狛犬の歴史】8-12. 玉獅子

■8-12. 玉獅子
 大きな玉に乗りかかり、後ろ脚だけで立つ狛犬があります。玉は転がるということから、物事がうまく進む意味があるといわれており、中国・山陰から九州北部にかけて多く見られます。この玉獅子は北陸、東北、北海道でも見られることがありますが、これは北前船によって運ばれた出雲型である場合が多いと考えられています。玉獅子(上杉千郷氏)、安芸玉乗り(鐸木能光氏)などと呼ばれているようです。

【狛犬の歴史】9. 高遠石工と狛犬

■9. 高遠石工と狛犬
 信濃(長野)にあった小さな藩・高遠藩は、江戸時代中期に財政が逼迫するようになると、農家の次男以下に石工の技術を習得させ、出稼ぎ石工として各地に送り出すようになりました(高遠石工)。藩は出稼ぎ石工から厳しく運上金を取り立てたたのですが、石工の中には流れ着いた地に身を隠して住み着く者もいました。そんな中に多くの優れた狛犬を彫った小松利平(1809年〜1893年)という石工がいました。彼は南福島に住みつき、多くの作品を残したと思わますが、脱藩者であったために台座に自分の名前を刻むことはありませんでした。

 彼が養子として迎えたのが、小松寅吉布孝という石工でした。寅吉は卓越した技術と情熱ですばらしい作品を作り、南福島の小さな神社に多くの狛犬を残しました。「飛翔獅子」と呼ばれる雲に乗り空を飛ぶ狛犬という型は彼による発明ではないかといわれています。彼の一番弟子であった小林和平も寅吉の型を継承しつつも、昭和に入り数々のすばらしい作品を残しています。

 ちなみに、小松利平、小松寅吉布孝、小林和平と受け継がれてきた高遠石工の作品を初めて紹介したのは鐸木能光氏ではないかと思われます。その様子は下記のサイトに詳しく書かれています。

◆「小松寅吉・小林和平の作品を見に行く 1」(狛犬ネット)

【狛犬の歴史】10. 陶製狛犬の歴史

■10. 陶製狛犬の歴史
 ここまで、金属製の狛犬、木造狛犬、石造狛犬を見てきましたが、陶製の狛犬が作られた地域もありました。金属製の狛犬や木彫狛犬は貴族・豪族によって寺社に奉納されていたものでしたが、陶製狛犬は氏子や信者などの一般庶民が奉納したものがほとんどでした。神社に祈願やお礼のため絵馬を奉納する習慣は日本各地で古来からあったのですが、瀬戸や美濃のような窯業地では絵馬とともに陶製の狛犬を奉納する習慣が生まれました。そのほかの地域では陶製の狛犬はほとんど見られないようです。

 これらの陶製狛犬は鎌倉時代から江戸時代後期にかけて作られましたが、実物の獅子を見たことがない陶工たちは身近な犬や狼に姿を似せて作ったため、様々な表情や形態の陶製狛犬が作られました。鎌倉時代や室町時代のものは、胴体が長く、前脚がまっすぐ下へ延びており、足の爪は整然として、胸には衿毛がり、尾は単純な形のものでした。また、江戸時代になると奉納者の特注によって多様な形態のものが製作されるようになり、各地では奉納する神社の御祭にあやかり、狐や猿などに似た狛犬も作られるようになりました。

 陶製狛犬はそのほとんどが瀬戸・美濃のものでしたが、二つの例外がありました。一つは、岡山の備前焼狛犬です。姿は唐獅子風で、顔は獅子舞の獅子頭に似ており、蹲踞の姿勢で阿吽の形になっています。また、同じ陶製でありながら、瀬戸焼と異なり、1メートル以上もある大きさが特徴です。これは最初から参道に置かれるために造られたためと考えられています。しかしその大きさによって費用がかかるため、個人ではなく全氏子あるいは地位の高い人によって奉納されていたようです。このほとんどは幕末から明治にかけて造られたもので日本全国に分布しているのですが、次第に造られなくなっていきました。野外に置かれるために破損がひどく、制作費もかかるといった理由からかもしれません。もう一つは、陶器で有名な佐賀・伊万里の陶製狛犬です。伊万里では、江戸時代中期のほんの十年ほどの期間だけ「古伊万里焼赤絵狛犬」というものが作られ、神社に奉納されていました。

【狛犬の歴史】11. 明治・大正・昭和(戦前)の狛犬

■11. 明治・大正・昭和(戦前)の狛犬
 幕末には海運の発達などもあり、全国各地で盛んに狛犬が奉納されていましたが、明治維新を迎えると、それまでの神仏習合が否定され、廃仏毀釈運動が起きた混乱によって、狛犬の奉納は一時的に途絶えることになりました。しかし、明治二十年頃から次第に狛犬作りが復興し、日清・日露戦争に勝利した明治時代後期には狛犬奉納は第二の円熟期を迎えることになります。また、昭和十五年は皇紀二六〇〇年となり、全国の神社に数多くの狛犬が奉納されました。しかしその後、政情が悪くなると狛犬の奉納は減少し、またブロンズなど金属製の狛犬の中には戦時の金属供出で持ち出されたものも少なくありませんでした。

【狛犬の歴史】12. 旧官国幣社の狛犬

■12. 旧官国幣社の狛犬
 明治時代になると、近代社格制度が成立し、全国の神社は官社と諸社とに再編成されることになります。官社は、官幣社と国幣社に分かれ、それぞれに大社・中社・小社に区別され、諸社は府社・(藩社)・県社・郷社・村社・無格社に区別されました。この時代には各神社が県社・郷社・村社への昇格のため、神社の由来を見直し、新しく狛犬を造る場合には、その神社の由緒にふさわしい形態の狛犬や、社宝の木造狛犬を石造狛犬に写して奉納するということが多くなっていきました。この時代の狛犬には角が残っているものが多いのはそのためです。

 この時代の狛犬は、モデルとした狛犬から主に四つのタイプに分類されます。どれも力強く勇ましい姿が特徴です。

【狛犬の歴史】12-1. 大宝神社型(岡崎古代型)
【狛犬の歴史】12-2. 籠神社型
【狛犬の歴史】12-3. 東大寺南大門型
【狛犬の歴史】12-4. 弥彦神社型

【狛犬の歴史】12-1. 大宝神社型(岡崎古代型)

■12-1. 大宝神社型(岡崎古代型)
 大宝神社(滋賀・栗東市)にある鎌倉初期の木造狛犬を模したもので、招魂社型とも呼ばれています。元の木造狛犬と比べ、前脚や胸板がより筋肉質となり、威厳のある風貌になっています。白っぽい花崗岩で造られているものが多く、岡崎古代型と呼ばれ、昭和になり全国で見られるようになりました(→「【狛犬の歴史】13. 岡崎石工と狛犬」参照)。

◆「大宝神社 大宝神社紹介」(大宝神社) - 「文化財」の項にモデルとなった木造狛犬の写真。

【狛犬の歴史】12-2. 籠神社型

12-2. 籠神社型
 京都府丹後一之宮の籠(この)神社の狛犬は、かつては国産最古の石造狛犬とされていたため、これをモデルとした狛犬が多く作られました(現在は安土桃山時代のものではないかと言われているようです)。全国各地の護国神社には籠神社型が非常に多く見られます。

◆「重要文化財 魔除け狛犬」(元伊勢 籠神社) - モデルとなった石造狛犬の写真。

福岡県福岡市中央区 福岡県護国神社

神奈川県足柄下郡 箱根神宮

【狛犬の歴史】12-3. 東大寺南大門型

■12-3. 東大寺南大門型
 日本最古の石造狛犬といわれる奈良・東大寺南大門にある狛犬をモデルとしてあものです。頭を頂点、前脚と後脚を底辺とする二等辺三角形の形をしており、首の部分が長く、口の部分が四角いのが特徴です。

京都府京都市東山区 清水寺

【狛犬の歴史】12-4. 弥彦神社型

■12-4. 弥彦神社型
 オリエントの獅子像や古代中国の獅子像の影響を受けた伊藤忠太(築地本願寺などを手がけたことで有名な建築家)によって新たに創作された型で、大正五年の弥彦神社(新潟・弥彦村)、昭和八年の靖国神社に奉納された狛犬などがその代表とされています。忠太狛犬とも呼ばれているようです(鐸木能光氏)。

 いかめしく威厳を持った顔つきで、あご髭があり、獅子的な表情となっています。踏ん張った前脚と分厚い筋肉質な胸を突き出し、蹲踞しているのも特徴です。全体的にガンダーラ美術やヨーロッパのガーゴイル像の影響が伺え、独特の雰囲気を持った狛犬です。

【狛犬の歴史】13. 岡崎石工と狛犬

■13. 岡崎石工と狛犬
 石工の町として知られる愛知・岡崎市で大正時代に確立したのが、岡崎現代型といわれる狛犬です。この岡崎現代型の生みの親であった石工がその作り方を岡崎の石工仲間に公開したため、その方法は日本全国に広まり、各地で同様の型が見られるようになっていきました。

 その姿は、神殿狛犬の様式を現代風にアレンジしたもので、猫に近い顔の表情をしています。姿勢は蹲踞で、伏せ耳、顔の横のたてがみや尾の根元は瘤状になっているのですが、そのほかのたてがみは体に沿って華麗に流れているのが特徴です。現在、日本国内に建立される狛犬のほとんどは中国の石によって、中国の石工が造ったものですが、その中には岡崎現代型のものが多く見られます。

 また、同じく岡崎の石工が昭和の初めに作り出した型に岡崎古代型があります(→「【狛犬の歴史】12-1. 大宝神社型(岡崎古代型)」参照)。ともに昭和に入り大量に生産され、各地で見ることができます。

東京都荒川区南千住 石濱神社
岡崎現代型の狛犬 平成元年

【狛犬の歴史】14. 昭和(戦後)・平成の狛犬

■14. 昭和(戦後)・平成の狛犬
 戦中・戦後の混乱期に狛犬の奉納は激減しましたが、戦後復興を果たした昭和三五年頃から徐々に狛犬の奉納が増え始めました。しかし。この時期の約二十年間のブランクによって多くの石工職人の伝統が途絶えてしまいました。昭和四十年代になると機械化が進みましたが、彫った部分が少なくなり、削って仕上げる工法が主流になっていきました。この時代に多く奉納されたのが、岡崎古代型や、岡崎現代型と呼ばれる型です((→「【狛犬の歴史】12-1. 大宝神社型(岡崎古代型)」、「【狛犬の歴史】13. 岡崎石工と狛犬」参照)。

 平成期になると、古くからの狛犬が摩耗や破損によって新しい狛犬に取り替えられる神社が増えてきています。その多くが日本向けに中国で大量生産され、商社を通して国内の石材店への輸入されたものです。中国製狛犬の多くは、工業用ダイヤモンドなどの電動工具によって造られており、石工の繊細な彫りを見ることは出来ません。ただし、近年それらの中には中国石工によって彫られたと思われるもあり、岡崎古代型とも岡崎現代型ともやや異なる独自の型も見られるようになってきているようです。

【狛犬の歴史】15. おわりに

■おわりに
 このように現在では、古くから残る個性的で魅力的な狛犬が次々と新しい狛犬へと姿を変えていっています。古くなってしまい、たとえ一部が破損したり、摩耗していたりしたいたとしても、私は一つ一つが有名・無名の職人たちによって丁寧に彫られた優れた芸術作品ではないかと思うのす。そんな狛犬が次々と姿を消したり、境内に無造作に放置されている様を見るのは残念であり、寂しいものです。長年風雨にさらされ、苔むして独特の威厳を感じさせる狛犬はこれからも減り続けるのでしょうか。そんな現在だからこそ、狛犬にもっと注目があたってもよいのではないかと思うのです。

参考文献

◆書籍
・日本全国 獅子・狛犬ものがたり 上杉 千郷
・狛犬かがみ―A Complete Guide to Komainu (Japanesque) たくき よしみつ
・狛犬学事始 ねずてつや
・京都狛犬巡り 小寺慶昭
・THE 狛犬!コレクション―参道狛犬大図鑑 三遊亭 円丈
・神社の見方―歴史がわかる、腑に落ちる (ポケットサライ) 外山 晴彦
・神社の由来がわかる小事典 (PHP新書) 三橋 健

◆ウェブサイト
狛犬ネット
狛犬屋『巽彫刻』
京都の石屋〔石茂〕芳村石材店
狛犬について私が知っている2、3の事柄
liondogの勉強部屋
狛犬天国
神社探訪・狛犬見聞録
狛犬巡り、神社巡りの『コマメグ』
狛犬の社別館
神使の館
神社仏閣の写真の撮り方 | カメラノート